平和の俳句 2015-2017年

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終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう

2014年8月15日

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 69回目の終戦の日にあわせ、俳人の金子兜太(とうた)さん(94)=写真(左)=と作家のいとうせいこうさん(53)=同(右)=が対談した。海軍主計大尉としてトラック島で敗戦を迎えた金子さんと、東日本大震災を題材とした小説「想像ラジオ」が大きな共感を広げたいとうさん。俳句をテーマにした共著もある旧知の二人に、5・7・5の17文字がつくりだす小宇宙を手掛かりに、戦争と平和、社会を覆う空気などを縦横無尽に語り合ってもらった。

 

権力に 寄り添う構図 繰り返し

 ともに伊藤園の新俳句大賞の選考委員を務めた縁で、俳句の新潮流について語り合った対談本「他流試合」(二〇〇一年)がある二人。再会のあいさつもそこそこに、金子さんは、さいたま市の公民館が九条を詠んだ市民の俳句を掲載拒否した問題についておもむろに切り込んだ。

 →九条俳句掲載拒否 月報に俳句を載せなかった三橋公民館は「世論を二分するテーマはそぐわない」。

◆自由を毛嫌い

 金子 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これを出す出さないでもめているんですね。これについて、あんたに聞いてみたいんだけど。

 いとう こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。

 金子 やっぱり、そう言ってくれますか。(満州事変から始まる)十五年戦争の体験者なんだけどね。旧制高校に入ったころに中国との戦争が始まって。そのころの空気の中で、官僚とかお役人とか、いわゆる治安当局が、こういう扱い方をした。あのころは治安維持法が基準ですが。みんな自分たちでつくっちゃうんですよ。

 いとう 國分功一郎さんという若い哲学者が著書の中で、こういった下からの抑圧の問題を言っているんですね。自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう。だから自由っていうものを背負うことをもっと楽しめる社会にしなければならないというふうに彼は言っていて。

 →國分功一郎(こくぶん・こういちろう) 哲学者、高崎経済大学准教授。著書に「暇と退屈の倫理学」(朝日出版社)など。

 金子 戦前、新興俳句運動っていうのがあったんです。渡辺白泉<戦争が廊下の奥に立つてゐた>は今でも有名です。その連中が、日華事変開始の三年後に、かなり勾留されるんですよ。司直の手に挙げられるわけです。その火つけ役がね、今ちょうどあんたが言ったようにね、(俳壇内部から)新興俳句運動なんてやつはうるせえと、いい機会だから追っ払っちまえと動いた者がいたと聞いています。「京大俳句」なんかは十五人も捕まったわけです。風潮を利用するという傾向が今また出てきているわけですな。

 →新興俳句運動 高浜虚子が言う花鳥諷詠(かちょうふうえい)だけでなく、社会の現実をとらえようという革新の動き。

 →渡辺白泉(はくせん) 京大俳句事件で摘発され、執筆禁止。その後、俳壇との交流を断った。

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 いとう 一気呵成(かせい)にここまでオセロのようにひっくり返っていくかというような感じがしています。もちろんそれに抵抗する人たちも必ずきちんといる。前回の戦争の教訓が生きていると信じたいので、あるとは思いますけど、ちょっと目立たないというか。僕はメディアの中にいる者としては心掛けてはいるんですけれども。でも、やっぱり兜太さんとかが、この光景は実際にもう見たよという方が一番説得力がある。

 金子 十五年戦争で拝見済みということで。それはね、私はこれから大いに言おうと思っているんです。

 いとう 十五年戦争の場合は、そういう雰囲気になってから、ほんの数年で戦争になった?

 金子 そうです。俳句弾圧は昭和十五年。日米開戦はその翌年の暮れ。「京大俳句」に続く新興俳人の拘引、これを俳句事件と呼んでいるんだが、私の属していた「土上(どじょう)」という俳句雑誌があったのですが、主宰の嶋田青峰先生なんかも獄につながれるわけです。ところが尋問中に喀血(かっけつ)しましてね。家に戻されてた時期があって、ちょうどそのときの青峰先生に会っているんです。その後間もなく他界しましたがね。この人がボソボソボソボソ言っていたことも思い出しますけどね。治安維持法が過剰に使われた。何とかこういうことはいろんな形で訴えていかにゃいかんと。

 いとう 特定秘密保護法を見たときに治安維持法だと私は思いました。目立つところで言うことを聞かなさそうな人たちを引っ張っていく、ということが既に始まっているんだという実感はすごくある。デモなどでもそこまで勾留するに値するかなと思われるような人が、いなくなったまま、まだ勾留されていたりとかですね。先ほどの下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないであろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている。

 金子 そうそうそう、誇り顔をしてね。

 いとう 十五年戦争の前に、個人的な誇りが持てないような時代が来てたわけですか。何か違う形で取り戻そうとするような形でそんなことが起こったという感じなんですか?

 金子 そうですねえ。私の狭い田舎の例で言うんですけどもね、秩父という所に育ちまして。山国なもんですから、繭が命の中心だったんですね。ところが繭の値が下がってましてね。世界恐慌の影響でもってね。ちょうど満州事変が始まったばかりでしたけど、戦争に勝てばね、楽になるんだということをしきりに言ってましたよ、みんな。私はちょうど中学生で、戦争に行く時は勝って、この人たちを楽にしたいと、そんな気持ちでいたわけですよ。国のために戦え、国もおまえも楽になるというご託宣がひどく影響力を持つわけです。そうすると学校の先生の中などにも、得意になってそういうことを言うのが出てくるわけですな。一種の便乗派というか、そういうものが露骨だったのを今でも覚えていますよ。

 →世界恐慌 1929年発生。高関税など自国産業保護の経済政策が広がり、第2次大戦の一因となった。

◆論理 粗雑すぎ

 いとう それで自己満足していく。

 金子 中学の終わりの時に二・二六事件が起こりまして、中学生はかなり肯定的に受け取った。若い軍人がよくやったという気持ちで受け取らされた。ああいうのが怖いですな。やっぱり、分かる人はちゃんとこれは駄目なんだと言わないといけない。

 →二・二六事件 1936年2月26日、陸軍青年将校が首相官邸などを襲撃し、要人を殺害した。

 いとう 思い付く限りの言葉はなるべく言い、伝えるようにはしていますけど、非常にこう有効な、つまり、一番ここを突けばいいだろうという言葉がなかなか見つからない。なぜかというと、起きていることがあまりに非論理的だからですね。内閣だけで憲法の実質的な変更を決めてしまうことも、法の論理として見てみると非常に粗雑ですよね。

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 金子 粗雑です、粗雑です。

 いとう 法を扱う人たちの論の立て方ではない。でも、知性というものが世の中を駄目にしている、というような不満がある人たちの気持ちを利用しているので、理性でそれを批判しても嘲笑で終わらされてしまう。上手に言うことができない。もちろんそこでより有効な言葉を探すのが、文学者の仕事なのですが。

 金子 せいこうさんの小説「想像ラジオ」を読んで、今の話とかかわってくる印象を持ったんですがね。東日本大震災だけに問題を限定しているのではなくて、それを含むもっと大きな現実の中で生きている一人の人間として、いとうせいこうは戦っていると。散文詩としての美しさがあって、一気に読んだ。

 いとう 宇宙的な何かとか、歴史的な何かとか、大きなものとつながるようなフィクション(虚構)を有効に使わなければならないと考えた。最近「三田文学」というところに百枚ぐらいの短編を載せているんですが、伯父のような人と主人公の関係なんです。先ほどの金子さんとの話と重なり不思議だと思ったんですが、両親が信州の人間という設定なんで、繭の問題が出てくる。繭で日本が豊かになったけれども、世界恐慌で一気に不況になった。日本全国で一番の輸出産業だったわけですから、これがなくなったことから戦争に進む雰囲気になったと語る伯母のシーンがある。そこから飛んで二十世紀末ですけど、ガザ空爆の問題が出てきて、やっぱりここにも、経済と大きな権力のようなものというか、軍産複合体のようなきな臭い問題があって、でもその下に生きている人がいる。今の日本の感じを前にあったことと重なり合わせて、もう一回それぞれが考えなければならないと無意識的に思った時に、僕にとって象徴的な何かとして繭や蚕糸が出てきてた。

 金子 長野とか埼玉・秩父は繭の大産地でしたからね。


死の現場 知らぬ政治家 得意顔

◆戦争詠む必要

 いとう 僕がまだ伊藤園の新俳句大賞の選考委員だった時に湾岸戦争が起きて、戦時下の俳句をあえて採りたいと言ったら兜太さんが一番共鳴してくれた。社会の問題をすぐに庶民がすくい取って読める詩が、日本の場合は俳句としてある。そうなるとまさに「梅雨空に九条…」のようなものがあってしかるべきだし、そこが一番の表現の自由の最前線のつばぜり合いだと思う。ただ、名もない表現者の句がそのような象徴となるのは、自分がある程度のプロとして、フィクションのことを考えている人間としては、恥ずかしいですね。文学者がそこを打破しなきゃいけないんじゃないかと。ここで何でもないものをただ書いていて戦争になったら、戦後恥をかくよと。「戦後」と言うと戦争があるということを含み込んでしまっていて良くないが、でも今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです。そのことが前回の戦争の大きな教訓なので、沈黙しているわけにはいかないと。未来の人から見られていると思って、僕は物を書いています。

 金子 あまり生なリアリズムじゃなくて、現実と泥まみれになっている叙事詩というか、薫り豊かな、しかも現実に対して厳しい矢を射ている、そういう小説が出たら素晴らしいと思って、せいこうさんのふんどしに期待している。

 いとう 兜太さんの俳句、もちろん過去の戦争を描いたものもそうですし、今はセシウムが出てきたり、それが日本の深層にある風景として、季節として描かれていることが大きい。詩人や俳人の、特に短詩形であるところの刺さり方の強さがある。長編小説を書いていると三年も四年もかかっちゃう。その間に社会がどんどん違ってきてしまう。人間というか社会を、今という季節を、断面を見せてくれるという意味で、俳句のような動きをやらなきゃいけないというふうに読ませてもらってます。

◆一句の説得力

 金子 一人の俳句作家がいとうせいこうのようにというのは無理ですね。十人なら十人、その人が生み出す五百句なら五百句の総合力ですよ。今日も見てもらおうと思って、最近拾った俳句を書いてきた。先ほどの<梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これ、本当に優しい日常句ですけどね。それと中村晋という福島県の高校の先生ですが、この人は福島原発事故の重圧をまともに取り上げた。というのは奥さんがセシウムを心配して、子どもと一緒に山形県に入っちゃって。<春の牛空気を食べて被曝(ひばく)した>などいろいろ句を作っている。同じ福島の人で坂本豊という人の句もある。<ものの芽をみな攫(さら)いけり除染という>。3・11の直後に出てきて俳句だけじゃなく、エッセーでも有名になった人で照井翠(みどり)さんの句も<螢(ほうたる)や握りしめゐ(い)て喪(うしな)ふ手>。手を失う思いがあるという。それから蛇笏(だこつ)賞をもらった高野ムツオの句、これは<四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と>とその時の映像だけを書いてある。それから私の句でも3・11では<津波のあと老女生きてあり死なぬ>。福島の被ばくの句では<被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり>。十五年戦争で誰の記憶にも残っているのは、先ほどの渡辺白泉の句がありますが。川柳の鶴彬<手と足をもいだ丸太にしてかへし>、これも著名で一句で結構な説得力を持つわけです。

 →鶴彬(つる・あきら) 反戦川柳作家。新興俳句より早い1937年に摘発され、留置中に死亡。

 いとう 国民運動ではありませんが、そういうものがネットワークされないといけないなと。例えばこうしたものが一万句あることが力になると思う。僕も一緒に何かできるといいと思います。それと一緒に小説もあるという形で。今はインターネットの時代になって、例えばツイッターとか百四十字しか書けないような、そんな場所で情報はたくさん発信されている。まさにツイッターに出てくるような俳句を募集してそれを新聞に出すとか。放送に出すとか。連動して少しでもやらないと、歴史が全く凡庸な反復になってしまう。

◆過半は餓死者

 いとう 金子さんは現実、戦時中に南洋へ行かれていた。大岡昇平の「野火」を読んでも分かるように、戦死者は決して勇ましいものではなくて、過半は餓死者であるということを、なぜこんなに隠して勇ましいことのように美化するのか。意味が分からないくらい情報が隠されている。本当に先進国なのかと思うくらいひどい。

 →大岡昇平 小説家、評論家。「野火」は、自身の戦争体験を基にした戦争文学の代表作。

 金子 おっしゃるとおり。私がいたトラック島は死の現場として、いまいっぺん伝えたい。安倍さんをはじめ、今の政治家は、集団的自衛権を実現させようと、憲法の事実上の改悪を考えたりして戦争へ一歩近づいているが、なんであんな平気な顔で、得意顔でできるのかと考える。そうしたら分かりましたよ。死の現場をほとんど踏んでない人たちなんだ。トラック島は日本軍の連合艦隊の基地だったんだけど、アメリカの機動部隊にばんばんやられた。連合艦隊は逃げて、第四艦隊が残ったがぜんぜん弱い。そこで武器がなくなった。手りゅう弾をたくさん作り、実験をやったんです。「俺がやる」と志望したのは、兵隊さん以下として扱われている民間の工員さん。やったとたんにボーンって右手がすっ飛んじゃって。背中が破片でえぐられて、運河のようになっている。それで即死したわけです。餓死ってのは、いたましいわけでね。しかも工員さんは、国に殉ずるなんて考え方で来ていない。本当に無知な人たちが力ずくで生きてきて、結局食い物がなくなって死んでいく。仏様のような顔で。逆に悲惨なんですよ。戦場という死の現場を分かっていない政治家は、自衛隊の連中をすぐそのまま戦場へ持って行くことを平気で思っているけどね。自衛隊の人が足りなくなって徴兵制度が敷かれるようになることが心配なんですよ。

 →トラック島 ミクロネシアの島。日本海軍の拠点が置かれ、1944年2月に米軍の猛空襲に遭った。

 いとう 今、イスラエルがガザに対してやっていることも、僕はすぐ東京大空襲のことを思った。下町に育ちましたから。いろんな種類の爆弾が使われて火の海にされて、民間人がやられていく。政治家は、このことを日本の問題として考えてないんですね。国連決議も棄権したりして。ついわれわれが何十年か前に首都でやられたことをやられているという、そこが結び付かないのが僕には信じられない。そういう人たちが世の中を動かすようになってしまった。過去と、今起きていることはつながっているし、われわれの問題でもある。それを喚起するには言葉が問われていると思います。おじいちゃんおばあちゃん、兜太さんの話も聞いてきた人間としてつなげていかなければと思う。


僕たち選者で「戦後俳句」選ばせて

 金子さんは、トラック島で終戦を迎え、島を去るとき<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>と詠んだ。自分は一度死んだようなもの。生きて帰るのだから、これからは戦争のない世の中のためにできるだけのことをしようと決意した。

◆戦争への自虐

<『想像ラジオ』(左)> 2013年、河出書房新社刊。いとうせいこう氏の16年ぶりの小説。生者と死者の新たな関係を描く。
<『他流試合』(右)> 2001年、新潮社刊(絶版)。金子兜太、いとうせいこうの両氏が、俳句の新潮流を語り合う

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 金子 今の人に想像できないような無残な死に方をしていった人のことを思った時に、報いなきゃならないと。こっちも若いですから、余計身に染みた。私が学生のころ、俳句を始めたのは、出沢三太という無頼で非常に面白い人間がやっていたから。その人が俺を連れてった句会の中心に高等学校の英語の先生がいた。水戸っていうところは、聯隊(れんたい)もあって軍国臭ぷんぷんなんですけどね、お二人とも全く無視して、軍人が来ても頭下げない。俳句はそういう自由人が作るもんだと思い込んだんです。兵隊行くまで、自由人でありたい、ありたいと。ところが、戦争に行って、目の前で手がふっ飛んだり背中に穴が開いて死んでいく連中を見たり、いかついやつがだんだん痩せ細って仏様みたいに死んでいくのを見て、いかなる時代でもリベラルな人間でありたいと考えていた自分がいかに甘いかということを痛感した。自己反省、自己痛打が私にそういう句を作らせたと同時に、その後の生き方を支配した。年取ってもその句が抜けません。自分を緩めることができない。それぐらいの痛烈な体験でした。今の政治家諸公は、少なくとも俺のような戦争への自虐を感じないのだろうか。

 いとう 東京新聞でぜひ、何俳句と呼ぶか分からないけれども、募集してほしい。あえて戦後俳句と言っていいかもしれません。僕たち選者になって、戦争体験のことも、体験していないけれど自分たちは戦争体験をどういうふうに考えるかということも俳句にしてもらって選んで、ばあーっと載せたらいいじゃないですか。それで大賞、準大賞があって、その中から時代の代表作が生まれてくるってことが文学とかジャーナリズムを含めた、やっぱり言葉の力だから。

 金子 二人でやるとなると、ちょっと面白いと思いますよ。変なやつが二人でやってるっていうのは。

    ◇

【対談後記】「戦後」を続けていく決意 社会部長・瀬口晴義

 仲間内の句会で時々駄句をひねる。東日本大震災の取材経験からこんな句もつくった。<春泥にまみれし母子のフォトグラフ><こどもの日鯉(こい)の泳がぬ浜通り><秋風や倒れたままの忠魂碑>。俳句は見たままを詠めばよい。挑戦したことがないのは戦争をテーマにした句だ。観念的になりそうだからだ。

 多くの軍属が餓死したトラック島を去る時、金子さんは彼らの死に報いることを誓う。復職した日本銀行では出世を求めず、俳句一筋の人生を送った俳壇の重鎮は「体験を語ることが最後の仕事だと思っている」と旧知のいとうさんとの対談を快く引き受けてくださった。

 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>の句が、さいたま市の公民館の月報に掲載されなかった問題は、戦前の新興俳句運動の弾圧の歴史と重なることが金子さんの話で理解できた。共通する時代の空気は「自粛」だろうか。どきりとしたのは「今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです」という、いとうさんの言葉だ。いつまでも「戦後」を続けることがジャーナリズムの使命と私は考えているが、いとうさんはその先まで射程に入れていた。

 金子さんから<原爆忌被曝(ひばく)福島よ生きよ>の句が届いた。「戦後俳句」を募集したらどうか、という宿題もお二人からいただいている。「戦後」をいつまでも続けてゆくという決意と願いのこもった句。私も挑戦してみたい。