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千葉

1票の現場から 終わらぬ原発被害(下) 「当たり前の生活奪われた」

2019年7月3日 紙面から

「お店が減っちゃって残念だよね」。姉妹は顔を見合わせ笑った=福島県南相馬市で

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 「妹と同じ立場だったら避難した。どの選択が正しかったなんて言えない。住み慣れた環境から違う場所に移るなんて、誰も望まない」

 東京電力福島第一原発事故で、福島県南相馬市で普通に日々を送っていた四十代の妹は、高校生の長女と中学生の長男を連れて夫と共に避難し、千葉県内に落ち着いた。訪問介護事業所で働いていた五十代の姉は地元に残った。担当していた八十代の夫婦は「ここで死ぬ」と避難することを拒んだ。夫と二人、「もう逃げない」と覚悟を決めた。

 原発事故から七年がたった一年前、妹は南相馬に帰ってきた。避難先で長女は就職し、長男は大学に進学した。住宅支援の打ち切りに加え、体調を崩したこともあったが、子どもたちが自立したら戻るつもりだった。「生まれ育ったのがここだから」。姉は、妹が「帰ってもみんなと大丈夫かな」と心配していたのを覚えている。心配は杞憂(きゆう)に終わり、妹は今、地元で再び働き始めるため、準備を進めている。

 千葉の生活に慣れた妹の目に映った故郷の姿はショックだった。ハンバーガー店は閉まったまま、よく通った喜多方ラーメンの店も夜、早々に閉まってしまう。携帯電話会社のポイントやクーポンが使える店もない。

 姉は「美容師がいない。看護師がいない。特養のスタッフがいない。慢性的な人手不足」と事故から続くまちの様子を語る。「気晴らしに居酒屋に行っても従業員がいなくて片付けを手伝ったり…。気がめいって外出する気もなくなった」と漏らす。

 妹は千葉で、原発事故の損害賠償訴訟には加わらなかった。「体はぼろぼろで、疲れ切っていた」と話す。ただ、南相馬で、子どもの同級生が津波にさらわれた時、原発事故のため捜索できなかった悔しさは忘れられない。「あまりにむごくないですか」と訴える。

 福島に残った姉は「原発があるってことにイラッとする」と怒りをかみ殺す。「崩れて、周りを汚すだけの巨神兵(きょしんへい)。人間の力でコントロールできない物は造るべきでない。当たり前にあったものが奪われた。ゆっても仕方ないけど、原発誘致して、復興するって、政治家からしたら人ごとなんでしょ」

 ◇ 

 故郷へ戻る人がいる一方、健康被害の不安から、避難先にとどまる人もいる。

 千葉県内で夫と子ども二人と暮らす四十代の女性の福島の自宅は避難指示区域外だが、放射能への不安は今もぬぐい切れない。

 自宅は、福島第一原発から約二十五キロ。事故の約五年前に新築したばかりだった。千葉に避難した当初、小学生だった長男は学校で「福島に帰れ」と言われて泣きながら帰宅した。「土地だけではなく、人間関係や職場、生きる環境そのものを奪われた」。女性は二〇一五年、国と東電に損害賠償を求める千葉地裁での集団訴訟(第二陣訴訟)に参加した。

 だが今年三月の判決は、国の責任も故郷を失ったことへの賠償も認めなかった。全国で起こされた同様の訴訟で、国の責任が否定されたのは千葉地裁の二訴訟のみ。現在、第一陣十三世帯三十二人、第二陣四世帯十七人が東京高裁に控訴している。

 女性の闘いは続く。「ここで終われない。戻りたくても戻れず、今も苦しむ人の存在を忘れてほしくないから」 (林容史、太田理英子)

<福島県南相馬市の避難者> 原発事故後、20キロ圏内の警戒区域を含む市域の約7割で避難が指示された。2016年7月、居住制限区域、避難指示解除準備区域が解除。11年3月11日の住民登録人口7万1561人に対し、19年5月末の居住人口は5万4676人。15年、作家の柳美里さんが同市小高区に移住、“世界一美しい場所”を目指し書店「フルハウス」を開店した。

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