千葉
2017年10月15日
(届け出順、敬称略)
高校卒業後、建材メーカーに入社し、難解な労組用語に面食らった。働きながら法政大二部で国の仕組みを学び直した努力家だ。
当時、原水爆禁止運動は分裂の危機に揺れていた。共産党に身を投じ、以来五十三年がすぎた。転勤先の札幌では深さ五十センチの雪の中を党の機関紙・赤旗を配って歩いた。
「一日八時間働いてまともな暮らしが出来る世の中に」。故郷は福島県会津若松市。「原発に頼るのは愚かしい」と喝破する。
中学、高校と校内で無敵の中距離ランナー。桐生祥秀(よしひで)選手の9秒98にテレビの前で快哉(かいさい)を叫んだ。
八月の内閣改造で農林水産相に抜てきされ初入閣を果たすも、わずか二カ月で衆院解散。「コメの輸出四倍増をぶち上げた」と手応えを話すが、「農業はこうあるべきだという提案が農協から出てこない」と改革道半ばの思いは強い。
埼玉県副知事から二〇〇六年の衆院7区補欠選挙に出馬も敗北。職を失い、選挙区で立ちすくんだ。そんなとき「国のためにやれ」という友人の助言で目が覚めた。「何があっても怖くなくなった」
最新の趣味は「南の島のビーチに寝転がって缶ビールをプシュッとやるのを想像すること」
東京電力福島第一原発事故の対応を目の当たりにし、国民に寄り添おうとしない政治に失望した。衆院議員秘書を辞め、政治家の道を志した。
「野党は一本化すべきだ」。民進党の解体で、どう身を処すべきか、ぎりぎりまで悩んだ。今は立憲民主党の旗を掲げ、吹っ切れたように選挙区を駆け巡る。
「上位四十人の資産と国民六千五百万人の総資産が同じなんておかしくないか」と、アベノミクスや政治の私物化を批判する。
目指すは「人の心が分かる政治」。ストレス解消のゴルフは、相手の考えを読む良い訓練になるそうだ。
青森県の地方局アナウンサーを一九九七年から三年半、務めた後、政治家を志すようになった。「働く女性やお年寄りらみんなが、輝ける社会を作りたい」
これまで国政選挙に青森県内から三度挑んで落選した経験から「一部の人のために働く政治家を、目の当たりにしてきた」。東京都出身だが、野田市に親戚がいる縁もあり、衆院選は希望の党の公認を得て7区から出馬。「しがらみ政治の打破」を訴える。
趣味はカラオケ。松田聖子さんの歌は全曲、歌詞を見ずに歌える。会社員の夫と小学二年の長男との外食が、癒やしの時間という。
政治家になった動機を「貧しさからの脱却、豊かな国を目指すためだった」と明かす。五人きょうだいの末っ子で、高校までは親に学費を負担してもらったが、卒業後は、大工仕事の給料で、大学の夜間部に通った。独立して二十五歳で、建設会社を興した。
柏市議、県議を経て、衆院議員を六期務めた。政治家歴は約三十年、党県連会長は五期目の重鎮。
空手、柔道はともに有段、将棋も四段の腕前。多趣味で、体力に自信を持つ。「高齢化社会ということもあるが、六十七歳の自分を年寄りとは思っていない」と笑う。
二〇一四年の前回衆院選に続き、立候補した。「憲法堅持、原発ゼロを中心に訴えていきたい」と話す。消費税は「導入当初から反対」で「富裕層、大企業に応分の負担を求め、将来的に撤廃する」が持論だ。
福島県出身。上京して新聞配達をしながら大学入試の勉強に励んだ。そのころ、毛沢東を紹介した本に出合ったことなどをきっかけに、二十三歳の時、共産党に入党した。
柏市議を一期務めた。現在は党東葛地区委員会専従の副委員長。我孫子市の自宅から事務所のある柏市までロードバイクで通うのが息抜きだ。
二十五歳で県議に初当選し、十年を越える政治キャリアを積んできた。
自分と同世代を「就職氷河期を体験するなど、社会に対し、あきらめがち」ととらえ、政治を志した原点を「若い人の声を届けることだった」と振り返る。
国政は過去に旧民主の候補として衆院千葉7区、福島2区で当選。二〇一三年の参院選千葉選挙区で落選したが、一四年の前回衆院選の千葉8区で旧維新から出馬して返り咲いた。
柏市で生まれ育った。「今回も地元を意識して戦う」と意気込む。自宅で二匹の愛犬と「じゃれ合う」ことが息抜きという。