全国
2017年10月23日
少なからぬ国民が自分の意思は政治に届くのか、と思いつつ投票したのではないだろうか。本来の主権者たる国民が、である。
はじまりは安倍政治への疑念にある。
安保法、「共謀罪」法の強引な成立は、国会の民主的手続きを忘れたかのようだった。
森友・加計問題を「小さい」ことと言った政治家がいたが、国民の常識ではむしろ大きな問題である。
なぜなら信用なくして大きなことは語れない。
不信の政治をもって、日本の平和主義を覆しかねない九条改憲を語れるか。国民過半を説得できるのか。
もちろん政治がきれいごとばかりだとは、国民は思っていない。しかしそれでも国民の声が届かねば、民主主義、デモクラシーとはいえないはずだ。
歴史を振り返るのならデモクラシーは時に間違いを犯す。人の心の奥にふれやすいナショナリズムは内なる敵である。
だから誤るまいと修正しジグザグに正しい方へ進もうとする。
議会制民主主義の手本、英国の元首相チャーチルは議会で有名な演説をした。
<誰もデモクラシーが完全また賢明とは言うまい。実際デモクラシーは最悪の統治形態といわれてきた>
この時、欧州はナチス独裁の悪夢を見たばかりだった。しかしこう続ける。
<だが、わが国では、人民が統治すべきであり、公論が人民の下僕でこそあれ主人ではない大臣たちの仕事を形作り導き監督する、という感情が広く行き渡っている>
国民主権とはつまりそういうことである。国の政治を行いたいと思うのなら、国民の声を聞け。憲法を変えよ、とわれ先に叫ぶのでなく、国民の声を待て。
今、必要なのはデモクラシーの復権である。