紙面から

<リオへ届け 被災地からのエール> 東北・熊本出身選手へ 戦う姿は地元の活力源

東日本大震災から1年あまり後のロンドン五輪で、フェンシング男子フルーレ団体の銀メダルを獲得した千田健太(右)=2012年8月、エクセルで

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◇元フェンシング代表・千田から

 5年前、東日本大震災が起きた時、宮城県気仙沼市出身でフェンシング男子フルーレの千田(ちだ)健太(阿部長マーメイド食品)は遠征先のドイツにいた。帰国後、景色が変わってしまった地元に戻り、「生きるのに必死な姿を見ると、スポーツをしてる場合じゃない」と思い悩んだ。

 震災では友人を亡くした。すぐにできなかった葬式が、その年の夏に行われた。改めて地元に帰り、式に参列して考えさせられた。「自分は何をすべきなのか」。被災地出身のフェンシング選手として、自らの役割を考えるきっかけになった。そして、競技で結果を残すことをその役割と定めた。

 震災から1年あまりたった翌年の夏、ロンドン五輪に出場した。個人戦は2回戦敗退と、結果を出せなかった。被災地への思い、4年に一度の大舞台にかける意気込み。いろいろな気持ちを整理できず、「気持ち的に入り込んでしまい、高い覚醒状態になってしまった」という。

 その後の団体戦までの数日でじっくり考えて、開き直った。「2メートル×14メートルのピスト(競技用コート)の中の世界だけ。周りをシャットダウンして相手と2人だけの世界に入り込もう」。プレーに集中して銀メダル獲得に貢献。故郷にこれ以上ない明るい話題を届けた。

 2011年3月11日からの1年半ほどの経験を振り返り、「オリンピックがなかったら、自分は危なかったと思う。生きる希望がわかなかったんじゃないか」。今後、いつかは引退し、何らかの別の環境に身を置いても「他の人にはできない自分の役割は、優先してやる」というつもりでいる。被災地出身の五輪メダリストという肩書がついて回る人生を、受け入れる覚悟を決めた。

 さらに4年、再び巡ってきた五輪イヤー。狙っていたリオデジャネイロ五輪の出場権を獲得できず、今回は応援する側にまわる。

 リオで戦う300人超の選手の中には、東日本大震災や今年の熊本地震で被災した地域出身の選手も多い。自らの経験をもとに、千田はエールを送る。「自分が思うほどプレッシャーを感じる必要はない。結果を求めすぎるより、自分の生き方とか戦う姿を見せることが、被災地の活力源につながる」 =おわり

 (この連載は、平松功嗣が担当しました)

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