全国舞踊コンクールとは
- 国内最大規模・80年以上続く歴史あるコンクール
- 日本における若手舞踊家の登竜門として1939年から続く全国舞踊コンクールは、今回で82回目を迎えます。これまで数多くの著名舞踊家が出場してきたこのコンクールでは、毎年全国から1,000人以上が、バレエ、児童舞踊、邦舞、現代舞踊、群舞、創作舞踊の各部門で国内の頂点を目指して競います。審査員は国内外を代表する舞踊家・舞踊評論家あわせて約90名を迎え、今後の舞踊芸術発展を担う優秀な人材を発掘し、さらなる飛躍を後押ししていきます。
舞踊コンクール小史
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- 1938年(昭和13年)
- 都新聞(現在の東京新聞)12月29日付け芸能欄に「舞踊コンクール」開催の社告掲載。
開催要項は、予選が1939年2月1日~7日に上野松坂屋ホールで、決選が2月9日に日比谷公会堂で開催。資格は男女、年齢、独舞、組舞を問わず。音楽はコロンビア小唄名曲集(「初出姿」「飛梅の賦」「霊峰富士」「佛蘭西人形」「孝女白菊」「正行」等60曲)の中の1曲、振りは自由。賞は1位~3位の各1曲にコンクール賞。続く10曲に佳賞、1位~3位の指導者に奨励賞。副賞として、1位~3位の出演者と指導者にコロンビア・ポータブル蓄音器1台と小唄名曲集1組、佳賞出演者に小唄名曲集1組贈呈。参加料は不明。
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- 1939年(昭和14年)
第1回
- 1月1日から申し込みを受け付け、200余名の参加で第1回コンクールを行う。
入賞者の年齢は1位16歳、2位8歳、3位36歳で、佳賞者は9歳~26歳だった。
会場となった上野松坂屋ホールは、1929年完成の松坂屋本館7階に演芸ホールとして設けられたもので、日本橋三越本店の三越劇場に似たホールだったという。
日比谷公会堂は、同じく1929年、日本の本格的公共ホールの魁として完成。戦前、戦中、戦後を通じ、音楽、舞踊、演説会の中心だった。改装時などを除き、コンクールの決選会場として使用した(第56回まで)。
また、高杉妙子、音丸、霧島昇、松原操らの特別出演があり、入場は無料だった。特別出演はその後も続けられ、中断するまでに伊藤久男、二葉あき子、赤坂小海、長谷川一夫、花柳禄寿、藤間伊勢、松島詩子、山田五十鈴、轟夕起子、高峰三枝子らが顔を見せている。
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- 1940年(昭和15年)
第2回
- 部門を児童、一般の二つに分けた。年齢の基準をどこに置いたかは不明。参加料は1円。
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- 1941年(昭和16年)
第3回
- 文部省、日本厚生協會の後援、大日本舞踊聯盟の協賛となり、日本厚生協會賞、大日本舞踊聯盟長賞を制定。
小学校6年以下を児童とし、一般、児童とも第一部(日本舞踊、新舞踊)と第二部(現代舞踊、教育舞踊)に分けた。決選の入場料は指定席1円、一般席50銭。
12月、太平洋戦争勃発。
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- 1942年(昭和17年)
第4回
- 情報局が後援に、藝能文化聯盟が協賛に。文部大臣賞(各部を通じ最高位入選者)、情報局総裁賞、藝能文化聯盟賞制定。参加料2円、入場料も指定1円20銭、一般70銭に値上げ。
決選終了の6日後に東京初空襲。10月には「新聞統合要領」により都新聞社、国民新聞社が合併して東京新聞社となる。
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- 1943年(昭和18年)
第5回
- 主催東京新聞社。日本蓄音器レコード文化協會が協賛に。
厚生児童部を新設。児童部を小国民部に改称、年齢の下限を7歳とする。
決選最終日の4月18日、ソロモン上空で山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機が撃墜される。大学野球リーグ戦中止。
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- 1944年(昭和19年)
- 戦争の激化により、コンクール中止。
1945年敗戦、日本は連合軍に占領されたが、1946年2月には早くも東京新聞社主催の第1回女流名家舞踊大会が日比谷公会堂で開催、8月には東京バレエ団(現在のものとは別)による「白鳥の湖」のロングランがあり、日本の舞踊界は焦土の中に息を吹き返した。
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- 1949年(昭和24年)
第6回
- コンクール復活。3月27日から4月17日まで上野の都民文化館で予選、神田共立講堂で決選を開催。主催東京新聞社、後援文部省。
日本舞踊第一部、日本舞踊第二部、現代舞踊第一部、現代舞踊第二部、児童舞踊部の5部門。第二部、児童舞踊部の年齢は7歳~15歳。独舞、組舞自由で、伴奏はレコード片面分、または5分以内で2人以下の生演奏。参加料は1曲200円。予選は2次まで(第21回まで)。
コンクール賞を1位~3位入選者に、準入選賞を準入選1位~10位に、1位~3位の指導者に奨励賞を贈呈。文部大臣賞は各部1位に。
副賞として、コロムビア、ビクター、キング、テイチクなどのレコード、山中太陽堂のクラブ組み合わせ化粧品などあり、第12回まで続けられた。
予選の都民文化会館は上野公園不忍湖畔にあり、渋谷の東急東横店にあった東横劇場程度の規模だったといわれ、第7回にも使われたが、1951年には上野動物園不忍池分園(水上動物園)に生まれ変わった。
神田共立講堂は神保町の共立女子大講堂で、ホール難の時代にはしばしば音楽会、舞踊公演が行われた。コンクールでもこの後、日比谷公会堂が使用できない時に、予選、決選の会場となっている。
食糧、列車など旅行難の時代だったが、島根、広島、九州各地からも参加があり、児童舞踊部では大分県勢が栄冠を手にしている。
この回は斎田愛子、〆香の特別出演があり、以後第8回まで続けられ、大谷冽子、豊吉、喜久丸のほか、駐留米軍の子女による日本舞踊、江古田小学校絃楽団も出演している。
決選の入場料は昼夜各100円、通し180円
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- 1950年(昭和25年)
第7回
- 創作舞踊部を新設。規定は「邦舞、洋舞の形式を問わず、新たに創作し10分以内に演出し得るものとし、出演者は創作者自身に限らない。児童作品はのぞく」。
日本舞踊部を邦舞、現代舞踊部を洋舞と改称。文部大臣賞は邦舞、洋舞各第一部と創作の各1位、文部大臣奨励賞は邦、洋各第一部、児童の各1位へ贈られる。参加料は組舞で1曲1人増す毎(以後表記は1人毎)に100円を追加することとした。
日本舞踊協会、日本芸術舞踊家協会、日本児童舞踊家連盟協賛となり、各部3位までに協会賞、連盟賞を贈る。
朝鮮戦争始まる。
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- 1951年(昭和26年)
第8回
- この回のみ日本レコード文化連盟が協賛。文部省関係の賞は文部大臣奨励賞に1本化。
創作1位で特に優秀な作品に贈る高松宮賞を制定(第33回まで)。高松宮賞は選考が厳しく、初受賞は第11回で、該当者なしが12回もあった。
創作の時間が8分に。参加料は、1人増200円に改訂、3位までを入賞とし、準入選を準入賞に改称。
準入賞以外の決選出場曲を入選とした。
洋舞第二部は申し込み多数のため途中で応募締め切り。
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- 1952年(昭和27年)
第9回
- 副賞として、邦舞第一部最高位にジューキミシン、洋舞第一部最高位にホフマン賞。ジューキミシンは第10回以降も洋、邦各第一部、創作の各1位を対象に第16回まで継続。ホフマン賞はこの回限りで、バレエ映画「ホフマン物語」の輸入元である東和映画から、主演のリュドミラ・チェリーナの衣裳の複製が寄贈された。
参加料は1曲300円、1人増300円。
対日講和条約締結。
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- 1953年(昭和28年)
第10回
- この回以降、創作決選に照明を用い、他は地明かり。日本児童舞踊家連盟を全日本児童舞踊家連盟と改称。
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- 1954年(昭和29年)
第11回
- 参加曲の多い第二部、児童舞踊部は原則として入賞を1位1曲、2位2曲、3位3曲とし、準入賞も10曲に限定せず適宜増すこととする。
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- 1956年(昭和31年)
第13回
- 日本芸術舞踊家協会が全日本芸術舞踊協会に改称。
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- 1957年(昭和32年)
第14回
- 予選会場を、前年6月に落成の目黒区公会堂へ移す。多くの関係者の目を楽しませた桜は、落成時に植えられたもの。
児童舞踊部1位に全日本児童舞踊家連盟から持ち回りで優勝旗を贈呈。この部の年齢が5歳~13歳に。
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- 1958年(昭和33年)
第15回
- 幼児部を新設。洋、邦を問わず、学齢以下の子供が対象。優秀作品20曲程度を入賞とし、順位に関係なく決選会場で披露した。
制限時間が各第一部5分、第二部、児童舞踊部各4分、創作舞踊部7分、幼児部3分に。参加料は1曲500円、1人増300円、幼児部1人につき200円。
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- 1959年(昭和34年)
第16回
- 幼児部を邦、洋舞から切り離し、児童舞踊幼児部とし、第1予選の入賞曲の中から優秀曲を決選会場で披露(第21回まで)。
参加料は、創作が人数によらず1曲1,000円の別建てとなった。
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- 1963年(昭和38年)
第20回
- 参加料は、洋舞700円、邦舞1,000円、児童500円、幼児部300円、1人増300円。
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- 1964年(昭和39年)
第21回
- 東海道新幹線開通。東京オリンピック。
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- 1965年(昭和40年)
第22回
- 幼児部を廃止。児童、第二部の年齢を概ね10歳以下とし、下限をなくした。予選は1次のみに(第27回まで)。入場料は200円。
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- 1966年(昭和41年)
第23回
- 優秀な成績をおさめた団体に贈る団体奨励賞を制定。第43回からはコンクールの功労者の河藤たつろ(本名:河野達郎)の名を冠し、副賞金10万円も贈られた。
児童、第二部の年齢の上限を12歳に。
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- 1967年(昭和42年)
第24回
- 洋・邦舞1,500円、児童1,000円、1人増500円、創作2,500円に参加料改定。
10月に東京新聞社、中日新聞社の合併により、以降、東京新聞(中日新聞東京本社)主催となる。
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- 1968年(昭和43年)
第25回
- 主催東京新聞。
日本バレエ協会の創立に伴い、同協会が協賛に。洋舞が現代舞踊、バレエ(各第一部、二部)に分ける。
バレエ部のソロ3分、パ・ド・ドゥ5分、アンサンブル7分で、幼児の参加は認めず。
コンクール創立30周年を記念して、現代舞踊の先駆者石井漠を顕彰する石井漠賞を制定。コンクールの最優秀指導者へ、副賞金10万円。
参加料が1人増700円、創作3,000円。予選会場は、新宿の東京厚生年金会館小ホールだった。
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- 1969年(昭和44年)
第26回
- 前年に文化庁設置。後援は文部省から文化庁に代わる。準入賞を入賞に改める。
参加資格は高校生以上を第一部、中学生以下を第二部(バレエは幼児除外)とした。参加料は各第一、二部2,000円、児童1,500円、1人増1,000円。決選は3日間となる。
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- 1971年(昭和46年)
第28回
- 名称を「舞踊コンクール」から「全国舞踊コンクール」に改称。全日本児童舞踊協会設立、協賛は全日本児童舞踊家連盟から同協会に移る。
第二部不参加を条件に、中学生の第一部参加を認めた(第29回まで)。また、バレエ第一部は「白鳥の湖」など5作品の中からのバリエーション、パ・ド・ドゥ、ソロの1曲を予選の課題曲とした(この回限り)。
参加者の急増により、現代舞踊第二部は第2予選を行う(第36回まで)。
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- 1972年(昭和47年)
第29回
- 現代舞踊協会が設立され、協賛は全日本芸術舞踊協会が現代舞踊協会となる。
児童舞踊部の参加料を2,000円とした。
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- 1973年(昭和48年)
第30回
- 参加料を1曲3,000円、1人増1,000円、創作5,000円。
第一次石油ショックで狂乱物価。
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- 1974年(昭和49年)
第31回
- 参加料を1曲4,000円、1人増第一部2,000円、第二部、児童1,500円、創作7,000円。
春闘による大規模な交通ストライキが行われ、開催直前に予選日程を変更。決選はスト中に開催したが、参加者はじめ関係者の協力で大きな混乱はなかった。
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- 1975年(昭和50年)
第32回
- 決選会場は郵便貯金ホール(現在のメルパルクホール)。
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- 1976年(昭和51年)
第33回
- バレエ部パ・ド・ドゥの審査対象外のバリエーションを省略。参加料は1曲5,000円、創作8,000円に改定。
ロッキード事件発覚。
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- 1977年(昭和52年)
第34回
- 高松宮賞に代わり、東京新聞大賞を制定。初受賞は第40回。
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- 1979年(昭和54年)
第36回
- 参加者多数のため同一人の独舞参加は1部門1曲に制限。創作の参加料が10,000円。
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- 1980年(昭和55年)
第37回
- 現代舞踊、バレエにジュニア部を設置。この部の参加資格は申し込み時の高校、中学生。
制限時間は現代、児童4分、邦舞5分、創作7分、バレエはソロ3分、ソロ以外7分に。この回以降予選は1次のみに。ジュニア部1位には第40回まで東京新聞賞が贈られ、第41回以降、文部大臣奨励賞となった。
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- 1981年(昭和56年)
第38回
- 現代舞踊最優秀新人に贈られる高田せい子記念賞制定。副賞金10万円。
組舞1曲出場人数を16人以内とした。従来は規定がなく、第24回の児童舞踊部には1曲25人の記録がある。
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- 1983年(昭和58年)
第40回
- 参加料を1曲6,000円、1人増4,000円、創作12,000円に改定。
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- 1984年(昭和59年)
第41回
- 参加年齢の基準をその年の4月1日とし、現代、バレエ各第一部は19歳以上、同ジュニア部は13歳~18歳、現代舞踊第二部は12歳以下、バレエ第二部は7歳~12歳、邦舞第一部は16歳以上、邦舞第二部と児童舞踊部は15歳以下とした。
各部1位~3位を各1曲として表彰式で表彰、以下数曲を入賞とすることに表彰制度を改定。
9月、上位3位までの入賞者による「アンコール公演」始まる。第48回までは虎ノ門ホールで、以後、ゆうぽうとで開催し、第60回からはめぐろパーシモンホールで開催。
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- 1987年(昭和62年)
第44回
- 現代舞踊第二部1位を出した研究所を対象とした平多正於賞、児童舞踊部で最も高く童心を謳い上げた入賞曲の指導者を対象とした童心賞を制定(童心賞は第70回まで)。副賞金はともに10万円。
バレエ部デュエットで両者が審査対象の場合の制限時間を10分に。
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- 1988年(昭和63年)
第45回
- 東京都が後援、ルフトハンザドイツ航空会社が協力となる。東京都知事賞は各部1位へ。ルフトハンザドイツ航空賞はバレエ第一部1位が対象で、副賞として日本―ヨーロッパ往復航空券1枚。
参加料を1曲8,000円、1人増5,000円、創作13,000円に改定。
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- 1989年(平成元年)
第46回
- 邦舞第一部1位入賞者と邦舞第二部1位指導者を対象とした「みやこ賞」を制定。副賞金はともに10万円。決選が4日間に。
参加料が創作14,000円に改定。
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- 1990年(平成2年)
第47回
- バレエ・パ・ド・ドゥ部を新設、時間は11分以内。これに伴い、バレエ部は第一部、ジュニア部がバリエーションまたはバリエーション・コーダ、第二部がバリエーションのみとなる。年齢はパ・ド・ドゥ部が16歳以上で、ジュニア部の下限と第二部の上、下限を各1歳繰り上げた。
パ・ド・ドゥ部の両者審査の対象で特に優秀なペアを対象としたバレエ奨励賞制定。バレエ部門決選で希望者は照明を使用、参加料9,000円。
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- 1991年(平成3年)
第48回
- 参加料が1曲10,000円、1人増6,000円、創作15,000円に改定。
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- 1992年(平成4年)
第49回
- バレエ・パ・ド・ドゥ部の参加曲を「海賊のグラン・パ・ド・ドゥ」など指定された11曲の中から選ぶこととした。
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- 1993年(平成5年)
第50回
- 予選審査13日間、決選審査4日間。
第50回記念の「全国舞踊コンクール50年史」を刊行へ。
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- 1994年(平成6年)
第51回
- バレエ第二部の参加者増により、予選審査を3日間に。
予選審査14日間、決選審査4日間。
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- 1995年(平成7年)
第52回
- 現代舞踊第一部1位入賞者を対象とした平岡斗南夫賞を制定。副賞金10万円。
参加料を1曲11,000円、1人増6,000円、創作16,000円に改定。
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- 1997年(平成9年)
第54回
- 参加料を1曲12,000円、1人増6,000円、創作17,000円に改定。
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- 1999年(平成11年)
第56回
- 伴奏の音源にMDを使用開始(オープンテープと併用)。
入選者の発表を会場、東京新聞のほかに、インターネットのホームページでも開始する。
創作舞踊第1位を対象とした石井漠賞が終了。
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- 2000年(平成12年)
第57回
- 参加料が1曲13,000円、1人増7,000円、創作18,000円に改定。
決選会場を五反田のゆうぽうと簡易保険ホールに移す。
創作舞踊第1位を対象とした東京新聞大賞を制定。
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- 2001年(平成13年)
第58回
- 1月6日の中央省庁再編により、文部大臣奨励賞を文部科学大臣奨励賞に改称。
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- 2003年(平成15年)
第60回
- 財団法人目黒区芸術文化振興財団が共催に。
予選・決選の会場を新設のめぐろパーシモンホールに移す。
インターネットによる申し込み受付を開始し、受付期間を12月1日から1月31日までとする。参加料は1曲16,000円、1人増9,000円、創作20,000円に改定。
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- 2004年(平成14年)
第61回
- この回で東京都知事賞終了。以降も、東京都後援は継続。
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- 2005年(平成17年)
第62回
- 東京都後援終了。
伴奏の音源をMDのみとする。
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- 2006年(平成18年)
第63回
- 東京新聞(中日新聞東京本社)窓口での参加受付を終了し、申込は郵送とインターネットのみに。出演順の抽選を、くじ引きからコンピューターによるランダム抽選とする。
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- 2007年(平成19年)
第64回
- 児童舞踊幼児部を新設。順位を決めないで、入賞敢闘賞・入選敢闘賞・敢闘賞の3段階で結果を発表する。
文部科学大臣奨励賞から文部科学大臣賞に代わる。新設の児童舞踊幼児部を除く11部の1位に贈っていた文部科学大臣賞が、邦舞第二部を除く10部門への授与となる。
バレエ第一部1位入賞者が対象のルフトハンザドイツ航空賞終了。
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- 2008年(平成20年)
第65回
- 協力に日本航空会社が加わり、バレエ第一部1位入賞者を対象の日本航空賞を制定。賞状と日本~欧米および豪州の往復航空券1名分を贈る。
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- 2009年(平成21年)
第66回
- 邦舞第二部と児童舞踊幼児部を除く10部1位に贈られていた文部科学大臣賞が、現代舞踊ジュニア部、現代舞踊第二部、バレエ第二部を除く7部門への授与となる。
参加料を1曲18,000円、1人増10,000円(児童舞踊幼児部は5,000円)、創作22,000円に改定。
バレエ第一部1位入賞者を対象の日本航空賞、創作舞踊第1位を対象とした東京新聞大賞、現代舞踊最優秀新人に贈られる高田せい子記念賞が終了。
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- 2010年(平成22年)
第67回
- 協力が日本航空からエールフランス航空となり、バレエ第一部1位入賞者を対象に、エールフランス航空賞(賞状、東京~パリあるいはエールフランス航空が運航しているヨーロッパ内の都市のエコノミー往復航空券1名分)が制定される。創作舞踊第1位を対象とした山田五郎賞を制定。賞状、楯、副賞金10万円。
予選審査13日間、決選審査4日間。これまでコンクールの最終日に行っていた表彰式を、各決選日ごとに行う。
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- 2011年(平成23年)
第68回
- 3月11日発生の東日本大震災のため中止。
同年6月11日、チャリティー舞踊公演を開催。集まった募金1,640,311円を義援金として被災地に贈る。
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- 2012年(平成24年)
第69回
- 東京都が再び後援に加わる。
共催の目黒区芸術文化振興財団による財団賞を制定し、各部門第1位に賞状を贈る。石井漠・はるみ指導者大賞が制定され、各部門第1位に入賞した作品の指導者で、東京新聞が特に優秀と認めた者に、賞状、楯、副賞金10万円を贈る。
予選審査と決選審査を連続した日にちで行う。予選決選で会期15日間。
邦舞第一部、邦舞第二部、児童舞踊部、バレエ・パ・ド・ドゥ部の予選審査をなくす。
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- 2013年(平成25年)
第70回
- 全日本児童舞踊協会、日本舞踊協会、日本バレエ協会、現代舞踊協会が協賛から後援へ。
東京都知事賞が再開され、対象をバレエジュニア部第1位入賞者とする。児童舞踊部1位の研究所を対象とした児童舞踊大賞と、児童舞踊部で特に振付・衣裳で幼児の愛らしさを効果的に表現したと審査員が認めた作品の指導者を対象としたすずらん賞を制定し、それぞれ賞状、楯、副賞金10万円を贈る。
創作舞踊決選出場者の照明代を50,000円から30,000円へ。バレエ5,000円は変わらず。
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- 2014年(平成26年)
第71回
- 全国舞踊コンクールロゴマークを作成し、ホームページを一新。
児童舞踊大賞を廃止し、代わって平多宏之児童舞踊大賞を制定。対象と贈呈内容は同様。
予選・決選を12日間で行うことにする。
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- 2015年(平成27年)
第72回
- バレエ第一部に、国内バレエ団研修制度を併設。希望者の出場料は27,000円。優秀なダンサーが、井上バレエ団、スターダンサーズ・バレエ団、東京シティ・バレエ団、牧阿佐美バレエ団で研鑽を積むことができる制度。第72回は申込みはあったが、該当者はなし。
バレエ部門の年齢制限を変更。第一部は18歳以上、ジュニア部は14~17歳、第二部は10~13歳。
出場料を1曲21,600円、1人増10,800円(児童舞踊幼児部は5,400円)、創作舞踊部のみ32,400円に、決選の照明代をバレエ部門5,400円、創作舞踊部32,400円に改定。
音源にCD-Rを加える。
第70回以来、童心賞を再開。
エールフランス航空賞を、バレエ第一部1位からバレエジュニア部1位に対象を変更。
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- 2016年(平成28年)
第73回
- 群舞部門を新設。群舞部は年齢不問、群舞ジュニア部は13歳以上18歳以下。現代舞踊第一部とジュニア部はソロのみの参加に変更。バレエパ・ド・ドゥ部を廃止。
群舞部に文部科学大臣賞、群舞部と群舞ジュニア部に一般社団法人現代舞踊協会賞を授与。
黒沢輝夫賞を制定。
バレエパ・ド・ドゥ部終了に伴い、バレエ奨励賞を廃止。
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- 2017年(平成29年)
第74回
- バレエ第一部1位を対象に松尾明美記念賞を制定。
バレエジュニア部1位に対象のエールフランス航空賞終了。
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- 2018年(平成30年)
第75回
- 上位4番目以下の入賞の名称を「入賞1、入賞2、入賞3・・・」から「4位、5位、6位・・・」に変更する。
出場申込をインターネット(公式HP)からのみの受付とする。
音源の受付をCD-Rのみとする。
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- 2019年(平成31年)
第76回
- 目黒区、一般社団法人めぐろ観光まちづくり協会が後援に加わる。
バレエ第一部の国内バレエ団研修制度に谷桃子バレエ団が新たに対象となる。
平岡斗南夫賞、山田五郎賞、石井漠・はるみ指導者大賞、黒沢輝夫賞が終了。
創作舞踊部1位を対象に石井漠・はるみ賞、現代舞踊ジュニア部1位を対象に黒沢輝夫・下田栄子賞を制定。
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- 2020年(令和2年)
第77回
- 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、中止
みやこ賞、すずらん賞、河藤たつろ記念団体奨励賞が終了。
群舞部1位を対象に河藤たつろ記念団体賞を制定。
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- 2021年(令和3年)
第78回
- 創作舞踊部1位を対象に石井みどり・折田克子賞を制定。
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- 2022年(令和4年)
第79回
- 河藤たつろ記念団体賞が終了。