紙面から(パラリンピック)

<パラリンピアンの翼>(1)卓球・吉田信一 金髪の50歳、福島を胸に

リオ・パラリンピックに向け、練習に励む車いす卓球の吉田信一選手=東京都北区の味の素ナショナルトレーニングセンターで(由木直子撮影)

写真

 百七十を超える国・地域の身体・知的障害者が競うパラリンピックが七日(日本時間八日)、ブラジル・リオデジャネイロで開幕する。出場するのは四千人超。日本選手を地球の裏側まで運んだ「翼」を伝える。 

 「髪はリーゼント、学ランの裏地に刺しゅう。周りから見ればヤンキーだったね」。卓球に出場する吉田信一(50)=東京都府中市=の金髪が、やんちゃだった頃の昔話に妙な説得力を添える。高校三年の始業式前日、福島県須賀川市の実家近くでのバイク事故で、車いす生活になった。入院は一年に及び、高校を中退。父のドッグブリーダーの仕事を手伝ったり、工場で働いたが、「友人と車で遊ぶなどフラフラだった」。

 卓球との出合いは二十八歳。地元で開かれた全国身体障害者スポーツ大会の選手募集だった。いつしか競技にのめり込み、六年後、環境が整った都会を目指そうと決める。ステーションワゴンに家財道具を積み、東京に向かった。

 「一週間で仕事が見つからなければ戻る」というのが父との約束だったが、大手企業のグループ会社の障害者雇用枠を、ハローワークで紹介された。パソコンでの事務仕事。3DKのバリアフリー住宅を用意され、卓球台も持ち込んだ。「中卒で、東京で大手に入って、あんな所に住めてうれしかったな。アメリカンドリームじゃないけど」

 だが良いことと悪いことは背中合わせ。帰宅は午後十時を回り、練習との両立に悩んだ。長時間の座り仕事は車いす利用者には大きなリスク。練習どころか褥瘡(じょくそう)を患い、二度の入院と一年間の休職が待っていた。

 練習拠点に近い府中市に転居し、仕事も国立の研究開発法人に変えた。「卓球に取りつかれ、卓球に人生がついてきたのだから、仕方がない」

 パラリンピック出場を強く意識したのは二〇一一年三月の東日本大震災後。出場した世界選手権で、各国選手から励ましのメッセージを日の丸に書いてもらい、被災した故郷・福島に届けた。一二年ロンドン大会を目指したがかなわず、気にかけ続けてくれた父も亡くした。霊前に報告するためにも、リオに懸けた。

 「障害者にならなかったら、逆に社会に迷惑をかけていたかもしれない」と笑う五十歳。高速で打ち合うラリーを「これもできないのか、あれもできないのかと、自分に問い掛けられているよう」と表現する「元ヤンキー」の眼光は、やはり、鋭い。 (文中敬称略)

 =この連載は伊藤隆平、荘加卓嗣が担当します。

※ご利用のブラウザのバージョンが古い場合、ページ等が正常に表示されない場合がございます。