紙面から(パラリンピック)

<パラリンピアンの翼>(3)カヌー・瀬立モニカ 空気のように支えた母

パラリンピック・カヌーの瀬立モニカ選手(右)と、娘を支えてきた母キヌ子さん=東京都江東区で

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 誰よりも早く知らせたいのに、いない。カヌーの瀬立(せりゅう)モニカ(18)=東京都江東区=は、携帯電話も持たずに近くのスーパーへ出掛けていた母キヌ子が帰宅するや、「どこ行ってたの。リオが決まった」。幼いころから母一人子一人。二人で暮らしてきた母と娘は抱き合い、ただ泣いた。

 パラリンピック挑戦を決めてから、わずか二年。五月、ドイツであった世界最終予選のタイムは出場圏外で、そんなにうまくはいかないだろうと、四年後の東京大会へと気持ちを切り替えようとしていた矢先。帰国がてらの車いすでの長旅から自宅に着いて三十分足らず、上位選手の失格で出場権を得たと知った。

 幼いころからスポーツ万能。江戸時代から運河が縦横に走りカヌーが盛んな江東区で競技を覚えた。高校では都大会で上位に入り、国体の選考会を控えた二〇一三年六月、体育の授業で倒立前転をした際、脳と胸椎を損傷。下肢の筋肉に力の伝わらない「体幹障害」で車いす生活になった。

 「そんなに落ち込んではいなかった」と瀬立は言うが、看護師でもあるキヌ子の目には、一人娘がふさぎ込みがちに映った。「暗い顔をしていたら周りの人も離れちゃう。スマイル」と娘を励まし、寄り添おうとするが、家で唯一の働き手。娘が退院して学校に再び通うまでの約三カ月、一人自宅に残して仕事に向かわざるを得なかった。変な気を起こしてはいけないと、家中の刃物を隠した。

 瀬立は、カヌー関係者らの勧めでパラリンピック挑戦を決意し、明るさを取り戻していった。看護部長としてフルタイムで働いていたキヌ子は、仕事を抑えて娘との時間をつくることにした。練習場への送迎、乗艇の介助…。できることは何でもやった。支援の輪も広がり、区や企業、区民らが用具、設備、資金などを提供するようになった。

 「四年前のロンドン大会の時は普通の中学生で、三年前はベッドの上で寝ていた」と淡々と話す瀬立。この四年間、自らの身の上に起きた出来事を振り返り、「すごいなと思う。こんな変わっちゃっていいのかな」と笑顔を見せる。

 思えば、傍らにはいつも母がいた。時には心配性の母をうっとうしく思うことがないわけではないが、それは信頼の裏返しだ。例えれば母は「空気みたいな存在。その中でも酸素」。それだけ大切で、いなきゃ困るから。二人の戦いは間もなく本番だ。 (文中敬称略)

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