紙面から(パラリンピック)

<パラリンピアンの翼>(5)輝くゴール信頼のパスで 車いすバスケ・藤沢潔

パラリンピック日本代表男子車いすバスケの強化合宿で、紅白戦に臨む藤沢潔選手=5月29日、千葉市中央区の千葉ポートアリーナで

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 車いすバスケットボールは、障害の重たい選手にも必ず出番がある。機敏さや力強さでは勝てなくても、ここぞという時にシュートを決めれば、試合の流れを一気に変える見せ場だって演出できる。

 パラリンピックに初出場する藤沢潔(30)=長野市出身=は保育園児だった五歳の時、跳び箱で遊んでいて腰から落下。下半身が不随になり、以来車いす生活を送る。高校進学に向けては、エレベーターやスロープが整備されていないことから入学を拒む学校があり、疎外感を味わった。「同じ境遇の仲間が欲しい」と高校一年で地元の車いすバスケチームに入ったのは、別の高校に進学してからだ。

 車いすバスケでは障害に応じ、選手に「持ち点」が与えられる。障害が最も軽い「4・5」から最も重い「1」まで八段階で、コート上の五人の合計が14点以内でなければならない。藤沢はローポインターと呼ばれる重い方の「2」だ。

 藤沢のように腰にもまひがある選手と異なり、腹筋、背筋ともに障害がない選手は上体の自由度が高く、素早く動いて得点を量産しやすい。その代わり、敵の選手たちにすぐに囲まれる。こうした時が、ほぼノーマークの藤沢が輝く瞬間だ。

 二〇一二年のロンドン大会には代表候補として最終選考まで残ったが、合格通知は届かなかった。その年、強豪「埼玉ライオンズ」のスポンサーの住宅設備機器商社の営業所から誘いを受けて故郷・長野を離れた。スポーツ支援制度があり、練習のために勤務時間を変えられ、日本代表合宿や国際大会の際には特別休暇をもらえた。

 上半身が疲れるとシュートが入らなくなる課題を克服するため、坂道を上り、ウエートトレーニングで鍛え直した。肩は大きく、腕は太くなった。ゴールから遠い位置からのシュートも特訓で精度を高めた。

 昨年十月、韓国とリオ行きの切符を懸けたアジアオセアニアチャンピオンシップの三位決定戦では、試合の流れを決める前半終了間際にボールが回ってきた。シュートは決まり、38−32で折り返した日本は波に乗り、80−56で快勝した。

 激しく競り合う敵、味方の固まりと少し離れた位置に藤沢の居場所がある。そこでボールを受けて感じるのはプレッシャーよりも、積み上げた練習によって培われた自信、そして絆。「シュートを打ちやすい最高のタイミングでパスをくれるから」。リングに吸い込まれる放物線は、お互いが信頼し、認め合って生まれるチームの力だ。 (文中敬称略)

  =おわり

 (この連載は伊藤隆平、荘加卓嗣が担当しました)

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